繊細
ワイドショーで触れるような芸能ゴシップネタはあまり好きじゃなくてなるべく話題にしないように心がけてるんだけど、
あの俳優さんの自死のニュースを見てから数日たった今でも痺れるほど悲しい。
ので少し吐き出させてほしい。
同情とか、共感とかではなく、ただただ悲しくて思わず泣いてしまう。
人の死は、人々の死になるとただの統計上のデータになってしまうと誰かが言っていた。
年間の自殺者数とかを見るたびに、この人たちが死を選んだことで打ちひしがれるような悲しみを感じた人も同じだけ、いやそれ以上にいたんだと思うといたたまれなかったが、私もその人たちの中の一人になってしまった。
どうしてこんなに悲しいのか自分でもわからない。あまりに唐突でセンセーショナルな衝撃をまだ受け入れられない。
前に、偶然つけっぱなしだったテレビから世界一受けたい授業が流れた時、彼が藍色のTシャツを着て出演していた。
「これは、こういう人たちがこういう風に藍染めしてて、こういう経緯でここにあるんです」みたいな説明をたしかしていた。
手元にあるものの過程や物語を感じようとする繊細で文化的な人なんだなぁと思った。
なんで?どうして?と思う気持ちを抑えた。
この気持ちがメディアを煽って、くだらない取材やプライベートにまで踏み込んでしまうきっかけになってしまう。
きっと理由なんてないのだろう。
理由なんてない。私が死にたかった時も、原因はいくつか心当たりはあっても、理由なんてなかった。ただただどんな言葉も届かないほど深くて暗いところまでゆっくりと時間が私をしずめていくような感覚だった。
私の悲しみなんて比べ物にならないほど今もなお悲しみに打ちひしがれてる人は沢山いるのだろう。
感情に正しい供養の仕方などないと思う。
どうしようもない現実の中で生きていくしかないのだなと思った。諦めではなく、覚悟として、そう思った。
自己肯定感ってなに
めちゃくちゃ根暗で、ネガティブで、暇さえあれば死ぬ方法を考え、狂ってるときだけ自由な感覚がある時期があった。今も完全には脱却出来ていない。脱却する必要があるかもわからないけど。多分、そういう世界に住んでしまうと綺麗事とか自信の付け方とかほんとにバカらしくて胡散臭くてアホらしく思える。
その一方で、綺麗事とか自信の付け方とかの世界にいるとその圧倒的な生きやすさに身体が軽くなった感覚すら覚える。どちらが正しいとかはないのだろう。むしろ、正しい生き方なんていうものを自分で決めてしまうと必然と浮かび上がる間違った生き方の背景になにがあろうと知ろうともしない人間になってしまう。
私が真っ直ぐで正しい生き方をどことなく受け入れられないのは、小学生の頃、ものすごく自信満々で周囲から愛されて要領も良くて大人から好かれる子がいたのがきっかけだ。その子は人の痛みに鈍感で脳天気で、私が親に頼み込んで断られて出来なかった習い事に通って、今日もめんどくさいと悪気なく言っていた。
眩しくもあり、私にみじめという感情を教えてくれた存在でもあった。今もまだ真っ直ぐ生きてるのかな。
最近自己肯定感について考えることが多い。
半ば本気で虐待がなくなればいいのにと思っていて、その鍵になるのが親の自己肯定感なのではないかと思っている。
「生まれ変わったらなにになりたい?」
ときかれて、迷わず、自分だ、と言い切れることが自己肯定感というやつなのだろうか。
失敗もするし欠点もある完璧じゃない自分を充分に愛して他人や社会にも出来うる限りの優しさをもって接することが出来る人で在りたいと思う。
環境によってはただただ贅沢でしかない望みなのだろう。
ちなみに私は生まれ変わったら猫になりたい。
これは…猫肯定感というやつなのだろう。
母親にさっきの質問を唐突に投げかけたら、怪訝な顔をして「宮崎あおい」といった。今度は私が怪訝な顔になった。お母さん、宮崎あおいが好きなんて一回も言ってなかったじゃん。
話が脱線した。
もしも、自殺する人にきいてまわったら「生まれ変わってもまた自分になりたい」という人はいないんじゃないかと思う。
少なくとも私は精神を病んでるとき、生まれ変わっても自分になりたいとは到底思えなかった。
でも、生まれ変わったら自分になりたいと思えるような生き方をすることが、生きづらさを緩和する方法のような気がする。
人生は前向きに進むのではなく、後ろを見て後ずさって生きていくものだ。過去はあらかた見えるけど、未来はみえない。少し後ろは崖かもしれないし、ずっと探し求めていた花が咲いているかもしれない。
だから正しい選択なんて後にならないとわからない。その選択をする自分が好きか、好きじゃないか、自分の評価をあてにするしかない。
この話の流れだと、「自己肯定感をつけましょう!」みたいなことが正しいとされる風にまとめると文章として気持ちが良い(書いてる方が)んだけど、実際現実はそんな単純じゃない。
生活保護を受けてる家で、水道代にあてるはずのお金を母親が男に使い水道が止まり、毎日コンビニのトイレを使い学校のシャワーを浴びて過ごす子供がいる。精神障害を患い、毎日のように苦しい妄想に苛まれ居場所も仕事も失って滞納した家賃も払えない男性もいる。虐待から保護されて養護施設に入るも、問題行動ばかり起こしてたらい回しにされてる子供もいる。
自己肯定感、なんていうステージがあまりにも遠い人たちが沢山いるのだ。そういう現実をみるたび、自分がかつての、小学校時代の同級生になった気分になるのだ。「自己肯定感が大事」「お金じゃない、愛と健康こそが大事」本気でそう思えば思うほど、かつての同級生がサンタクロースがこない家があるだなんて想像もせず、サンタクロースの本当の存在を意気揚々と話してたのを思い出すのだ。
自分の世界だけで幸せになることはきっと大切だし、悲しみの蓋をあければそれこそキリがないのだろう。蓋をあけたところで手を差し伸べることも、助けることもできないのだから。
死にたいという人に生きてというのは、溺れてる人にとりあえず浮いてということだと誰かが言っていた。溺れてる人は浮きたい、死にたい人は生きたい、でもできないからそうなってるんじゃん、そしてあなたは助けられないでしょ、と現実が私に訴えかけるのだ。
こうやって考えてるうちに着地点を失ってただ暗い気持ちになってしまう。
悩んでも失敗しても、自己肯定感を持って生きよう、と思った時、私は自分が「それを選べる」条件で生きてることに安堵してしまう。そしてそれを選べない人の気持ちも少しだけわかってる以上、その視点からみえる自分は頭がおめでたくて人を無意識に見下していて誰かの犠牲の上で成り立つ幸せを無下にしている気がしてしまう。
それが自己陶酔に思えたとき、言いようのない自己嫌悪に襲われるのだ。
でもこんなこと考えたって仕方ない。
日常があって仕事があって、いまだって目の前にやるべきことが列をなして待ってる。
これ一年後とかに見返したら相当頭おかしい文章なんだろうな…
今も相当頭おかしい文章だけど…
日記にしては暗すぎる🥰✨✨(無理やり明るい絵文字で締める)
綺麗事だけで生きていけたらどんなにいいんだろう
私は綺麗事が好き。
心の中に置いておくだけで自分がまるで良い生き方をしているような気持ちになれるから。
良い生き方、なんてものがあるのかわからないけど。
私たちは社会という集団の中で、へその緒から切り離され名前を振り分けられ、生まれ落ちた環境の中、手元にある限られたカードを駆使して生きていく。
幸せを得るためにはお金があった方が良くて、そのお金を得るためには自分という商品の値札を少しでもあげなければいけない。まるでスーパーに陳列されたあの商品のように。
人は人と比べると不幸を感じやすい。あの人の方が多くを持っているとか、あの人はずるいとか。
だから幸せになるためには誰かに認められようとせずに自分をとことん大切にする必要がある。だけど、結局自分を大事にするためには余裕が必要で、その余裕の裏には色々な背景がある。
例えば親に殴られながらとか、寝床や食事を探しながらとか、深い悲しみの中にいながら自分を大事にすることが出来るほど人間は強くできていない。
綺麗事の中で生きていきたいけど、私は綺麗事を正しい、と少なからず思えるほどの安全圏に生きていられるだけなんだと思う。
だから考え事を突き詰めて結果綺麗事に行き着くと、一体これにどれだけの価値があるんだろうと思う。
綺麗事だけで生きていくにはこの世界は悲しみが多すぎる。だけど綺麗事だけで生きていけたらどんなにいいんだろうと思う。
日記もどき
無印で、金木犀の匂いのお香が売ってたんですよ。
それがまぁめちゃくちゃいい匂いで、部屋で焚いたらさぞかし気分が良かろうと思ってマスクで隠れた口をにやにやさせながらレジに持っていこうとして、ふと思いとどまって手を止めたんですね。
っていうのも、私は金木犀が好きというより、金木犀の匂いに包まれて、体全体で秋を感じるあの感覚含め好きなんですよ。不意打ちで鼻をかすめて、無条件に切なくなったり幸福感が溢れ出したり、とにかく一瞬自分の感情のコントローラーを誰でもない誰かに握られたような感覚にさせるのが季節の匂いだと思ってて。
その中でもとりわけ夏の夜の匂いと金木犀の匂いは格別なんです。もちろん春の陽気な匂いも冬の朝の匂いも好き。
ひとりでいることが妙に心地よくなって、去年の今頃はこうだったとかああだったとか、匂いが勝手に記録した思い出を思い出したりする時間がくるおしいほど好きなんです。
そう考えると、私はここで金木犀のお香を買って、焚いて、次の秋を迎え、街中で不意に金木犀の匂いを感じたときどう思うか考えると、
「あ、部屋の匂いだ」
であり、そのお香に飽きたときにはもう、「うわ、部屋の匂いだ」になるわけじゃないですか。
金木犀が好きだからこそ、私は金木犀の匂いだけは買うべきではないのではないか、と思いつつ、いや純粋に匂いが好きなのになにその「好きすぎて付き合えない」みたいな理由。匂いってなかなか自分が良いと思えるものに出会えないのになにその理由。意味わかんない。と葛藤してました。
結果買わず、代わりに葛藤してる間ずっと目の前にあった布マスクをなんとなく買ったらめちゃめちゃ肌触りよくて顔にフィットして、むしろこれに出会うための葛藤だったんじゃないかとすら思いました。
無印良品のまわし者みたいになってしまった…
読み返せないやつ
最近考えることがNHKとかでやってそうな「みんなで考える社会問題」(※そんな番組はない)みたいな感じで、なぜそうなったのか自分でもわからない。
ただ、自分でもわからない中で、自分の中ですごく重要視していることだけはわかる。
例えば、同性婚が認められてないことが私の中でずーっとモヤモヤし続けてる。
かといって、同じ考えの人を探し出して「そうだそうだ!」って共感して思想を強化したところでそれが直接なにかに結びつくかと言われると難しくて、こうやって言葉にして発信したところで「私は赤色が!好きです!!」くらいの力なのが悲しいというか、民主主義の「民」って一体誰なの?優しさのない資本主義がたどり着くところって一体どこなの?(大袈裟)ってなる。
そもそもこんな当たり前の権利を「国の偉い人達」に乞う必要があることが違和感で、わざわざ弱者が日常を犠牲にして声を上げ続ける労力が当たり前な時点で国会はもう全部zoomにして国会議事堂を遊園地にでもしてしまおうって思ってしまう。
だって当たり前の権利に声あげてる時間でその人美味しいもの食べられたかもしれないし。
たしかにこれまでの歴史をみれば、選挙権ですら人が殺しあって誰かが勝ち取ってくれたもので、なにかを得るためには声をあげなきゃいけないのもわかる。
過去の人々には感謝した上で思う。それが当然なんじゃなくて、過去がおかしいって風潮にいつなるんだろう。
人が生きて死んでいく上で、一人で生きる人もいれば、パートナーと日々を重ねたい人もいるのは当然で、その権利がある人とない人がいることって変だなって思う。
まぁ、おかしいおかしい言ったところで何か変えられるかというと変えられないんですけどね……
同性婚とか黒人差別、女性差別とかって「認めてあげる」「差別しないであげる」みたいな「優れてる我々の、やさしさの上に成り立つものだけど優しくしようかな?どうしようかな?」みたいな考えが基盤にある以上絶対根本的な解決は無理だろうなって思う。
もしも、多様性がなにかの足枷になるなら、それは多様である外側に問題があるんじゃなくてそれを受けいれられない内側にこそ問題がある。それが個人であれ、社会であれ。
そして、多様性を受け入れたとき、人はきっと豊かになれる。そうやってアップデートして見える景色が変わることを贅沢っていうんじゃないかなって思う。
そこにたどり着く人は「してあげよう」ではなく、「学ばせてもらった」の域にいるとおもう。
弱者という立場に追いやられてる人たちからこそ学ぶべきことが沢山ある。これは、権力や地位のある人にこそ知って欲しいこと。
弱者という立場になるまでの過程について真剣に考えることが自分自身の人生や生き方への肥料になる。これ、権力のある人に届け…!(無理だよ)
↑社会問題について考えてると綺麗事と諦めの巡回バスと化してしまうのって私だけですか
私は権力もお金も人脈も影響力もないから、社会問題に関しては自分の価値観の答えあわせや思考実験のように使ってる部分もあって、解決するために具体的な手立てを探そうともしていない。デモや署名などには懐疑的ですらある。
私にとって正義って何種類かあって、何も解決しないただ熱いだけの気まぐれみたいな種類の正義がある。それがあるせいで、正義全体にうっすらとした嫌悪感がある。正義は時に人を盲目にする。だからまといたくないな、って思う。
きっと正義感だけで解決する問題ならもうとっくのとうに解決してるんだよね。
これもなにかきっと、あっちを立てればこっちが崩れる的な問題があって、私に見えてないだけかもしれない。
でも、マイノリティの人が幸せになるチャンスが理不尽な理由で少ないのはやっぱ変だ。とにかく生きる上で誰しもが環境や好きな性別で左右されず同じだけの選択肢を持つことができたらいいなって思う。傲慢な願いだけどそれが全て。
だから私に出来ることって、ひたすら政治家のマニュフェスト調べて投票する、関わる人がマイノリティだったとき、せめて自分といる間は不便な思いをしないように気をつけるくらいしかできない。
……気づいたら2:30でハッとした。
独り言のつもりが夜中の独り言の主食が私の貴重な睡眠時間になりつつある。
というか、なんか、思想強いなぁ…。文章のカロリーが高いというか消化しにくいというか。
武井壮のツイートとかたまに流れてくると、「正しいけど、思想が強い人だな…」って思って引き気味でみてたけど、今日の自分思想が強すぎて夜中の今ですら若干引いてるんだから明日の朝とか怖くて読み返せないわ…。
寝れない時に思い出すあれこれについて
寝つきが悪すぎてどんなに疲れていても、前日2時間しか寝てなくても、布団の中にはいった途端数時間は眠れない。それまでずっと眠いのに。なんで…。
朝方から昼間にかけての睡眠が一番気持ちよくて深い感じがする。休日最高。
中学や高校に通ってたころは、机の上が世界一の寝床だった。
昼休みは常に寝てた。
人生で、休み時間に校庭に出たことない。図書館に行くか、寝るか。どちらかの二択だった。
中学2年生の頃、席替えをしないタイプの先生が担任になった。
前に座ってた男の子がかなり太っている子で、でかくて、私はその子のおかげで歩き回らないタイプの先生の授業中は大体いつも夢の中にいた。
その子は当時色付きのシャー芯にハマっていて、ノートを色付きのシャー芯で書いていた。私はたまに後ろからみながら、キラキラ発色する青い文字をみて、いいなぁって思ってた。
なにかの拍子に一度だけ話すことがあって、青色のシャー芯なんてあるんだね、いいね、みたいなことを言ったら何本も私にくれて、嬉しかった。空のシャー芯入れをつくり、そこにしまって机の上に出して眺めていた。
ある日、学校の技術家庭科の技術の先生が授業しに教室にきて、ブチギレたことがあった。
先生がキレてるとき特有の教室の空気が嫌いだった。全員の心が鉛のように重くなっているような空気。はやくおわれ、と思いながら机をみている時間。
その先生はいつもすぐキレては机を蹴ったりチョークを投げたりと表現が全身全霊パフォーマンスタイプだった。
私はいつもその先生の後ろ姿を廊下でみるたびに学校から居なくなる呪いをかけていたがとうとう効かないまま私は卒業した。
その日のキレていた理由は忘れたが、キレている間に不運にも彼の色付きのシャー芯と落書きが目に止まったらしく、とにかくそれが理由で私の前の席にいた太ってた男の子の頭を、次の技術の授業で作る木の本棚の見本で突然殴った。
生々しい鈍い音に私はびっくりして、肩を硬直させて息を呑んだ。
一瞬の沈黙の後、その子は泣き出して、でも誰も、なにもいわなかった。
結局何事もないまま授業になったのだが、空気はみんなが衝撃を受けた瞬間の空気で静止したまま授業はすすみ、私は心臓がバクバクしていた。
また、その子からもらったシャー芯が隠れるようにそっと手を上に置いた自分がいて、そんな自分を姑息で醜いクズだと思った。
授業が終わっても私はなにも声をかけられず、いつものように机に突っ伏した。
視界いっぱいに広がる暗い机。
心の中はずっとざわざわしていた。
私はその日の夕方に、保健室の先生と数学の女の先生に、いかに技術の先生が怖かったか、理不尽だったかを伝えた。
それが伝わったのか伝わらなかったのか、日常はなにも変わらなかったが、その先生はキレることが減った。でも学校にはずっといて、態度だけはいつもえらそうだった。
今なら、と思う。
今なら、たとえ30人が黙っていても私は無言で立ち上がって、緊張に感情がかき回されて泣き喚きながらでも、それはおかしい、まじで、と貧相なボキャブラリーで主張できる気がする。
教育委員会とやらへの電話番号も、今の時代はスマホがあればすぐにでてくる。
学校宛に手紙を書いたってよかった。
男の子に、君は悪くない、あいつまじで頭おかしい、死んだほうがいいと言うべきだった。
おかしいことをちゃんとおかしいって言える大人にならなきゃいけない。
正義でもなく、使命感でもない、決意のような罪滅ぼしのようなものが私の中で漂っている気がした。
もう10年前のことだけど、たまに思い出す。
結局色付きのシャー芯は全部使わないままどっかにいってしまったし、先生の名前ももう覚えていないけど。
次の年、クラス替えをしてから私は授業中うとうと寝たり本を読んでると注意されるようになった。
技術の先生を廊下でみるたびに呪い、その男の子を廊下でみるたびに、挨拶はしないけどその子が笑ってるとどこか安心した。
中学校って不思議な場所だったなー。
二度と戻りたくはない。
ロブ・ゴンサルヴェスの絵
錯視画好きすぎてエッシャー展は横浜も上野も行ったけど、ロブゴンサルヴェス展に…行きたい……
なれない。
定期的に、憧れの女性像についてひたすら書きたくなる。そういう種類の衝動が私にはある。
始まりは5歳くらいのころ。下手くそな、年相応の絵はいつも「かわいい女の子」。自分でも友達でもない、名前のない女の子。
字を覚えると、その絵に説明を書き足すようになった。「サラサラの髪😊」とか、「おっきいお目目」とか。
あれから15年経ち、やることが変わっていない。
憧れの女の人は、いつも遠くでこっちをみて微笑んでいて、陽炎みたいにゆらゆらゆれて、追いつけたことはただの一度もない。
いつも、自分とは真逆の、私のもっていないもの全てが詰め込まれたような女性が好きだ。
例えば、その人は他人の評価を気にしない。一生付き合っていく自分の声にだけ耳を傾けて、人生に対しての美学が確立している。
しかし決して自己中心的ではなく、正しいと思った方を主張できる。
その人は人に優しくすることと、自分が好かれたいがために甘やかすことをはっきりと分けている。
尽くして甘やかすことで感じる、相手をまるごと所有しているような錯覚は味に例えると依存性のある甘さだ。
しかし人間関係においてその甘さは必ずしも愛とは直結しない。
花にとって必要な水も、あげすぎるとあっけなく枯れる。何事にもバランスがある。
私の憧れの女性はそんなことはずっと前、とっくのとうにわかっているのでわざわざ言葉になんかしない。
恋人がいて、大切にされていて、その人といる自分自身が好きだとはっきり言い切れる強さがある。
仕事が好きだが、自己犠牲は払わない。
人当たりは柔らかいが、話すと芯の強さが見える。
流行りを追うよりも自分に似合う、好きな服を着て、靴だけは少し高い靴をはいている。
品と知性と色気が嫌味なく漂っていて、寛容で何にも縛られていない。
字が綺麗で、姿勢が良い。整理整頓が得意で、何が欲しいかよりも、何を捨てることができるかを考えている。
完璧主義ではないが、その場しのぎの妥協は絶対にしない。
彼女は、体重とか偏差値とか年齢とか、数字にとらわれることがない。体重ならスタイルそのものを、偏差値なら会話の引き出しを、年齢なら自分の年の重ね方への満足感を振り返ることができる。
いつも自信があって、みずみずしく生きている。自然に触れて、美しい景色をみたり、いい匂いを嗅いで、五感を研ぎ澄ませている。
あー、遠いなぁ。と、狭い部屋のすみで携帯をカタカタ打つ自分に引き戻される。
けれど、なにかに憧れている時の、ふわふわした精神状態が好きだったりする。
夢見心地を自給自足して明日も生きる。
大好きな蒼井優ちゃん。
「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」と蒼井優ちゃんが言ってたっていうのをtwitterでみて、さらに好きになった…好き…