なれない。
定期的に、憧れの女性像についてひたすら書きたくなる。そういう種類の衝動が私にはある。
始まりは5歳くらいのころ。下手くそな、年相応の絵はいつも「かわいい女の子」。自分でも友達でもない、名前のない女の子。
字を覚えると、その絵に説明を書き足すようになった。「サラサラの髪😊」とか、「おっきいお目目」とか。
あれから15年経ち、やることが変わっていない。
憧れの女の人は、いつも遠くでこっちをみて微笑んでいて、陽炎みたいにゆらゆらゆれて、追いつけたことはただの一度もない。
いつも、自分とは真逆の、私のもっていないもの全てが詰め込まれたような女性が好きだ。
例えば、その人は他人の評価を気にしない。一生付き合っていく自分の声にだけ耳を傾けて、人生に対しての美学が確立している。
しかし決して自己中心的ではなく、正しいと思った方を主張できる。
その人は人に優しくすることと、自分が好かれたいがために甘やかすことをはっきりと分けている。
尽くして甘やかすことで感じる、相手をまるごと所有しているような錯覚は味に例えると依存性のある甘さだ。
しかし人間関係においてその甘さは必ずしも愛とは直結しない。
花にとって必要な水も、あげすぎるとあっけなく枯れる。何事にもバランスがある。
私の憧れの女性はそんなことはずっと前、とっくのとうにわかっているのでわざわざ言葉になんかしない。
恋人がいて、大切にされていて、その人といる自分自身が好きだとはっきり言い切れる強さがある。
仕事が好きだが、自己犠牲は払わない。
人当たりは柔らかいが、話すと芯の強さが見える。
流行りを追うよりも自分に似合う、好きな服を着て、靴だけは少し高い靴をはいている。
品と知性と色気が嫌味なく漂っていて、寛容で何にも縛られていない。
字が綺麗で、姿勢が良い。整理整頓が得意で、何が欲しいかよりも、何を捨てることができるかを考えている。
完璧主義ではないが、その場しのぎの妥協は絶対にしない。
彼女は、体重とか偏差値とか年齢とか、数字にとらわれることがない。体重ならスタイルそのものを、偏差値なら会話の引き出しを、年齢なら自分の年の重ね方への満足感を振り返ることができる。
いつも自信があって、みずみずしく生きている。自然に触れて、美しい景色をみたり、いい匂いを嗅いで、五感を研ぎ澄ませている。
あー、遠いなぁ。と、狭い部屋のすみで携帯をカタカタ打つ自分に引き戻される。
けれど、なにかに憧れている時の、ふわふわした精神状態が好きだったりする。
夢見心地を自給自足して明日も生きる。
大好きな蒼井優ちゃん。
「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」と蒼井優ちゃんが言ってたっていうのをtwitterでみて、さらに好きになった…好き…