生かされる苦しみ
祖父のお見舞いにいった。
つい先週まではギリギリ車椅子に座っていたが
今日はもうベッドに寝たまま。もうご飯もなにも食べれない状態で点滴だけで生き延びている。
好きだった水羊羹も、もっていったが、一口も食べれないと。
頭だけは妙にしっかりしている分、動けなくなった身体と、永遠とも思える時間が祖父を身体的にも精神的にも苦しめていた。
「もう生きていても仕方がない。もうさっさと死にたいんだけど、なかなか死ねないね。」
私の目も見ずに、ぼんやりと目先の空間に視点をおいて何度も同じことを違う言い方でいった。
もうなにも食べれない、動けない、人ともうまく話せない状態のままただ毎日生きて、
回復して、良くなる見込みもなく、到達地点は決まってるのに終わりが見えない日々。
身体という檻に閉じ込められ、現世との交信手段をじわじわと絶たれていくのをただ観察するしかない苦しみは、想像を絶する。
どんな言葉も、言葉としては無力であったが、
これまでの祖父との関係性があるから、
私が祖父に言葉をかける、という事実そのものに意味があるはずだ、と自分に言い聞かせて
祖父の色白になった手を握った。
「……何か欲しいものはある?」
そう聞くと、間髪いれずに、
「この点滴をもうやめてほしい」
と答えた。
祖父は自分の死をどう見つめているんだろう。
1度停止したら再開することのない、本来かけがえのないはずの生命活動が今は忌まわしいのだろう。
孤独感だったり、無力感や恐怖をただひとり、
変わらない病院の天井を見ながら諦めとともに苦痛とともに感じているのだろうか。
年齢も年齢だから、病気と「闘う」わけでもなく、「受容」「共存」しているつもりでも、現実的に辛いことが多すぎる。
元々は絵をかいたり、本を読んだり、散歩したりすることが好きな人だった。
それがある日絵もかけなくなり、そしてまた別の日に食べれなくなり、歩くことができなくなり、
自分らしさ、アイデンティティを日々喪失していく中で、もう今の寝たきりの状態の中にはなにも「祖父らしさ」はない。自分らしさを失ったら、次に失うのは人間らしさだ。
それを痛感しているから、自分が自分として生きる意味を見いだせないのだろう。
自分の人生のはずなのに、人生から疎外され、コントロール権を失い、あとは全てを失っていくのをただ傍観していくことが決定していたら、
はやく死にたいと思うのは当たり前の心の反応で、その痛みは解決することができない。
私ができることは、ただそばにいるだけなのに、
仕事があってそれもままならない。
思えば、祖父には本当に色んなことをしてもらった。
私が本を好きになったのは、祖父の大きい本棚の影響だし、
絵を好きになったのは、一緒に絵の具で絵を描いたことが影響している。
小さい頃からよく近所に散歩にいったし、父親参観的なものも来てくれたし。
祖父の死が、それらの思い出の喪失ではないはずなのに、その時には思い出すとも思わなかった思い出のひとつひとつが今思うと尊い。
なんか、進化したVRみたいなものが、祖父にこれまでの楽しかった思い出を祖父視点で追体験させてくれたらいいのになぁ。
でも、VR外した時の現実との温度差が逆に残酷か。
明日、また会いに行こうと思う。
なにも出来ないけど、答えのない苦しみを解決しようと思うほど傲慢じゃない。
降り続ける雨の中、傘をさしてあげることができなくても、一緒に雨に降られたいと思ってしまう。
そして、もし天国があるなら、今祖父が感じてる苦痛が全てチャラになるくらいめちゃくちゃ素敵な場所であってほしい。