自己肯定感ってなに

 

めちゃくちゃ根暗で、ネガティブで、暇さえあれば死ぬ方法を考え、狂ってるときだけ自由な感覚がある時期があった。今も完全には脱却出来ていない。脱却する必要があるかもわからないけど。多分、そういう世界に住んでしまうと綺麗事とか自信の付け方とかほんとにバカらしくて胡散臭くてアホらしく思える。

その一方で、綺麗事とか自信の付け方とかの世界にいるとその圧倒的な生きやすさに身体が軽くなった感覚すら覚える。どちらが正しいとかはないのだろう。むしろ、正しい生き方なんていうものを自分で決めてしまうと必然と浮かび上がる間違った生き方の背景になにがあろうと知ろうともしない人間になってしまう。

 

 

私が真っ直ぐで正しい生き方をどことなく受け入れられないのは、小学生の頃、ものすごく自信満々で周囲から愛されて要領も良くて大人から好かれる子がいたのがきっかけだ。その子は人の痛みに鈍感で脳天気で、私が親に頼み込んで断られて出来なかった習い事に通って、今日もめんどくさいと悪気なく言っていた。

眩しくもあり、私にみじめという感情を教えてくれた存在でもあった。今もまだ真っ直ぐ生きてるのかな。

 

 

最近自己肯定感について考えることが多い。

半ば本気で虐待がなくなればいいのにと思っていて、その鍵になるのが親の自己肯定感なのではないかと思っている。

 

「生まれ変わったらなにになりたい?」

ときかれて、迷わず、自分だ、と言い切れることが自己肯定感というやつなのだろうか。

失敗もするし欠点もある完璧じゃない自分を充分に愛して他人や社会にも出来うる限りの優しさをもって接することが出来る人で在りたいと思う。

環境によってはただただ贅沢でしかない望みなのだろう。

 

 

ちなみに私は生まれ変わったら猫になりたい。

これは…猫肯定感というやつなのだろう。

 

母親にさっきの質問を唐突に投げかけたら、怪訝な顔をして「宮崎あおい」といった。今度は私が怪訝な顔になった。お母さん、宮崎あおいが好きなんて一回も言ってなかったじゃん。

話が脱線した。

 

もしも、自殺する人にきいてまわったら「生まれ変わってもまた自分になりたい」という人はいないんじゃないかと思う。

少なくとも私は精神を病んでるとき、生まれ変わっても自分になりたいとは到底思えなかった。

 

でも、生まれ変わったら自分になりたいと思えるような生き方をすることが、生きづらさを緩和する方法のような気がする。

 

人生は前向きに進むのではなく、後ろを見て後ずさって生きていくものだ。過去はあらかた見えるけど、未来はみえない。少し後ろは崖かもしれないし、ずっと探し求めていた花が咲いているかもしれない。

だから正しい選択なんて後にならないとわからない。その選択をする自分が好きか、好きじゃないか、自分の評価をあてにするしかない。

 

この話の流れだと、「自己肯定感をつけましょう!」みたいなことが正しいとされる風にまとめると文章として気持ちが良い(書いてる方が)んだけど、実際現実はそんな単純じゃない。

 

生活保護を受けてる家で、水道代にあてるはずのお金を母親が男に使い水道が止まり、毎日コンビニのトイレを使い学校のシャワーを浴びて過ごす子供がいる。精神障害を患い、毎日のように苦しい妄想に苛まれ居場所も仕事も失って滞納した家賃も払えない男性もいる。虐待から保護されて養護施設に入るも、問題行動ばかり起こしてたらい回しにされてる子供もいる。

 

自己肯定感、なんていうステージがあまりにも遠い人たちが沢山いるのだ。そういう現実をみるたび、自分がかつての、小学校時代の同級生になった気分になるのだ。「自己肯定感が大事」「お金じゃない、愛と健康こそが大事」本気でそう思えば思うほど、かつての同級生がサンタクロースがこない家があるだなんて想像もせず、サンタクロースの本当の存在を意気揚々と話してたのを思い出すのだ。

 

自分の世界だけで幸せになることはきっと大切だし、悲しみの蓋をあければそれこそキリがないのだろう。蓋をあけたところで手を差し伸べることも、助けることもできないのだから。

 

死にたいという人に生きてというのは、溺れてる人にとりあえず浮いてということだと誰かが言っていた。溺れてる人は浮きたい、死にたい人は生きたい、でもできないからそうなってるんじゃん、そしてあなたは助けられないでしょ、と現実が私に訴えかけるのだ。

 

こうやって考えてるうちに着地点を失ってただ暗い気持ちになってしまう。

悩んでも失敗しても、自己肯定感を持って生きよう、と思った時、私は自分が「それを選べる」条件で生きてることに安堵してしまう。そしてそれを選べない人の気持ちも少しだけわかってる以上、その視点からみえる自分は頭がおめでたくて人を無意識に見下していて誰かの犠牲の上で成り立つ幸せを無下にしている気がしてしまう。

それが自己陶酔に思えたとき、言いようのない自己嫌悪に襲われるのだ。

 

でもこんなこと考えたって仕方ない。

日常があって仕事があって、いまだって目の前にやるべきことが列をなして待ってる。

 

 

これ一年後とかに見返したら相当頭おかしい文章なんだろうな…

今も相当頭おかしい文章だけど…

日記にしては暗すぎる🥰✨✨(無理やり明るい絵文字で締める)

 

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