ヨルシカの盗作が良いっていうだけです

 

ようやく訪れてくれた休みの日、寝坊したかったのに暑さで目が覚めて、カーテンの隙間から覗く光が完璧に夏の色をしてることを確認する。

 

遠くから子供の笑い声がかすかに聞こえて、起き抜けに飲む水が身体中に染み渡っていく感覚に体を委ねる。髪を結んで、シャワーを浴びてぼーっとして、また外を見た。夏の晴れの日は、生きる、という色に世界が染まってるようなエネルギーに溢れた空気で満たされている。

 

ヨルシカのアルバムを心待ちにしていたわりに忙しさと疲れでなんだかんだ初回限定版も買えてなくて、大人になると余裕のなさにどんどん蝕まれてしまうことを改めて感じた。

 

イヤホンをつけてApple Musicでダウンロードしたアルバムをかけた。

 

当初のヨルシカの繊細なイメージとは少し、いやだいぶ離れたような大胆な雰囲気のアルバムジャケット。

 

特に構えることもなく再生する。一方的に聴くだけの音楽だと思っていたものが身を翻してニヤリと笑って私の手をもって引きずりこむかのような始まり。どこか暗い部屋の中にいるような、その場にいるのに居ないような、後ろからVRゴーグルをかけられたような世界観の移行にたじろいている間にその「なにか」と既に共犯になってしまう。そして二曲目にしてもう音楽の中にいるのだ。

 

少し投げやりで、危なっかしくて、でも華麗で、魔性のなにかに強烈に惹かれて、私は夜の古い洋館のような部屋から、どこに続くかわからない廊下を色々なカラクリに魅了されながら進んでしまう。

しかし聴き進めていくと、さっきまでの挑発的な危うさのヴェールが徐々に剥がれていき、苦しさや、悲しさ、切なさ、みたいな触れたら壊れそうな感情へ静かにグラデーションになっていくように感じる。美しさをとことん求めるということと孤独になることは少し似ていて、手放したい、と手に入れたい、の間で葛藤する「なにか」は私の視線なんてまるで気にせずそこにいるみたいだった。

この音楽の中にある中毒性のある破壊衝動を、私は遠くから傍観している一方で、自分の中にある破壊衝動も薄々自覚しながら、自分を許したくなってくるのだ。

生きたい、死にたい、どこかにいきたい、どこにもいけない、永遠、一瞬、暗い、眩しい、幸せ、「  」、色んな矛盾や、不完全な空白が共存していることを許したかった。

 

そうしていつのまにか暗かった場所を通り抜けてさっきまでが嘘みたいに幻想的な世界にいることに気づく。振り向いてもさっきまでの黒く渦巻いているものはもうどこにもない。

透き通った声が、夢から醒める前みたいなふわふわした感情を引き出す。

ヨルシカはいつも私に、人生の正解だとか励ましだとかそんな生産的なものはくれない。

ただ、黙って静かに感情を観察する時間をくれるのだ。そんな時間に妙に浄化させられる。だから明日も絶対頑張ろうとか、そういう風にはならないけれど。

 

 

アルバムが終わって、しばらくぼーっとして、私は自分が部屋の中にいることに気付いた。

せわしない日常の中、他人軸で生きている時は感じない気持ち、手のひらで掬い上げられない感情に染まる時間は非日常的で不思議だった。

 

こんなふうに好き勝手エゴ丸出しでかかれることも気持ち悪いことなのだろう。

深夜だし、まぁいっか…

 

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