この世にある文章のほとんどは、行き先のないラブレターだ。

感情が溢れて文字になり、文字が並んで文章になる。文章がつらなって表現になって、表現の連続が自分になる。

 

好き、って気持ちは与えられるより抱くほうが遥かに贅沢で、甘くて、苦しさすらも中毒性を帯びてるということに気づいてしまった。手で掬い上げるそれは、満月の色をして、指の間から滑り落ちていって夜に溶ける。

 

男。退屈を食べて大きくなった幼児のことをそう呼ぶらしい。私はこの独特の生き物のことを無性に好きになる瞬間と瞬間を繋ぐ時間を生活と呼んでいる。この独特な生き物も大概は私のことを好きになってくれる。女は美しければそれは美味しい退屈だからだ。

 

恋愛。冷静さを欠けば欠くほど愉快な娯楽だ。感情を交わらせてマニュアルを沿うように溺れる。唯一の欠点は、直ぐに飽きてしまうところ。私の恋愛感情は、お早めにお召し上がりくださいのシールがぺたりと貼り付けられていて、寝て起きたら腐ったケーキが3口ほどかじられてテーブルの上に置いてあって、どうしようかと迷ってると別の方角から鈴の音が誘惑するように可愛く鳴っている。病的な気まぐれ。最低な甘美。

 

駆け引きと取り引きの違いって、楽しいか楽しくないかだと思う。駆け引きなんてしないで素直に感情をぶつけるのも雪合戦の宣誓布告みたいで楽しいけど、絶妙な距離感の会話で相手の気持ちの糸をたぐりよせながらわかりやすく好意を間接表現するのも心臓がべろべろに酔ってしまうほど日常が甘くぼやける。

 

愛しい愛しい愛しい。真っ直ぐで歪んだエゴを狂ったように押し付ける。あなたは私のことをいつか必ず忘れるし私もいつかこんな日のこと忘れるけど。それでもこの先この瞬間が私たちを構成する一つのパーツになるような時間を過ごそう。忘れたことすら忘れてしまっても、覚えてることだけが価値じゃないから。

 

私を好きになるような趣味と頭の悪い優しい男どもには絶対に伝わらないだろうからこんなところにうだうだ書く。久々に長い文章!やっぱり楽しい。

時間をご馳走さまでした。

 

まずは、日々の生活。余った力でインターネットをしよう、と普段から心がけている(私は自分が承認されやすいネットにすぐ本腰をいれてしまうので)

 

昨日の成人の日は1日中、「携帯を取り出して文字を打ちたい!」って衝動に駆られながら過ごし、しかしあの重量感のある振袖と同窓会の雰囲気に圧倒され、帰宅してお風呂に入ってすぐ寝てしまった。眠れない日の自分に眠気をわけてあげたいと思った。ていうか、あの後二次会いったり行きずりで体の関係もったりして次の日1限から行った人がいるなら届かない拍手をここでしたい。体力、すごすぎでしょ。絶対シャトルラン100超えてたでしょ。

 

そんなことはどうでもよくて、いやどうでもよさでいったら全てがどうでもいいんだけど、とにかく、成人式。結局成人式の解の公式はわからなかった。2次方程式ならわかるのに。成人式って、要は学生時代の人脈の答え合わせなんだなと当たり前なことに気づく20歳。

事実だけをいえば、人混みの中をただ徘徊しに行った。しかし、物事は起きるだけで良い悪いを決めるのは自分。私は、「人生に二度とない」ことがいつも「楽しさ」に直結するとは限らないという有難い教訓だと解釈した。

 

なんだか、大人って、きっと色んなことを諦めてしまう生き物で、諦めてしまう習性すら諦めてしまうのかななんて思いながら街頭新成人アンケートに協力した。若いって素晴らしいと言われたけれど、若さだけが私の価値なら、一体私ってなんなんだろうと思う。そんなつもりで言ったわけじゃないってわかっているけれど。

 

誰かと話したかったわけではないけど、本当に誰とも話せず、まるで振袖をきた透明人間になったようだった。

 

個性を金で買って今日まで準備してたヤンキーたちが「チョーイケテル俺たち」をふりかざしてた。ヘンテコな髪型。何言ってるかはわからないけどなにかを言ってることはわかる拙い力強さ。若さ特有の痛さが、なぜだか驚くほど眩しかった。バカにしてるわけではなく、すごいな、と思った。

 

同窓会は、非日常的だった。まるで、「同窓会」というVRの中にいるような、全くの他人事にバグで紛れ込んだようなナチュラルな違和感があった。

先生と話して、当時の顔見知り程度だった人たちと話して、盛り上がりもせず、かといって絶対に険悪にはならず、わたしお得意のその場しのぎ連続技が炸裂していた。

 

会が終わると速やかに帰った。私の帰り方は、帰るというよりもはける、に近くて、みんなが写真を撮ってるであろう時間にはもう電車に揺られていた。

 

そういえば同窓会なのに色めきだったことなにもなかったなー、誰ともラインも交換してないし、とはやく帰ったくせに退屈を軽く嘆く私の図々しさに自分で呆れる。

 

成人式も同窓会も、そういう儀式めいたもの全部、なんだかぎこちなくてサイズの合わない服をきているような感覚になった。

 この先の人生も、幸せと感じて当たり前の儀式を、こうやってぬぐいきれない違和感をもちながら過ごすのかなと思うと、チロルチョコサイズの絶望を感じた。

 

成人式は楽しかった。同窓会は「超最高、中学に戻りたくなった」。もう、それでいいじゃないか。健全さが足りないんだよ、私には。記憶の中のインスタグラムには、楽しかったと記しておこう。スタンプで可愛く隠したいびつさは、一生隠れてていいからね。

 

20年生き抜いた人間のみがその年だけ行く資格をもらえる、恐ろしい行事その名も成人式に、なんと明日、いけることになった。

気付いたら20年生きていたということだ。まぁよくよく考えると当たり前のことなのだが、「20年」というまとまった数字になると途端に現実味をなくす。

 

成人式に対するイメージは、騒ぎ立てるモヒカンの全裸、もしくは人間の耳を壊すために作られたうるさい車。そしてきっとその車には落書きとして「霊柩車!」など漢字でシンプルに不謹慎な言葉が書き殴られてるはずだ。こわい、成人式。しかし行く。「せっかく」の四文字におされ、私は明日…未知の世界に…ごくり。

 

そして、それよりももっと恐ろしい、おぞましい行事その名も同窓会に、なぜか参加することになった。「同窓会には行かない」そう言い続けていた数年間は一体なんだったんだろう。

 

「中学時代」という自分の体に合わないサイズの檻の中で各自不恰好に呻いてた時代をともに過ごした人間と5年の月日を経て一緒に食事をしようだなんて悪趣味きわまりないことを思いついたのは一体どこの誰なのだろう。

 

少なくとも私は地元の駅を通るときや街にでるとき「できるだけ自分を知ってる人に会いませんように」と思いながら歩いている。

それなのに、同窓会。なぜなのか。

 

最大の理由は、出欠席のラインができなかったことだ。指、主に親指の可動域がそのラインを送るとなると「0」になってしまう。可動域0。一体なにが私の親指を硬直させたのか。

 

幹事が、同じクラスだった男子だったのだ。しかも、なんていうかキラキラしてる、わかる?あの男子。インスタグラムのハッシュタグを乱用し、お洒落な投稿をしたと思えば次の投稿では「地元卍」、かと思えば可愛い彼女を連れた匂わせ投稿。完全に「完全版男子大学生」、ローマ字で打つと「kanzenban-dannshi-daigakusei-kirakira」である。

 

高校時代マスクをつけ登下校し、今なお最寄駅では俯いて歩く私にとって、出欠席だろうと個人的なやりとりはなんだか気が進まなかった。(女子校女子大なので免疫もない)

 

ラインしようと思ってもできず、「連絡してないし死んでることになってるかな!欠席だよね」と信じていたのに、最近きたラインが「同窓会出ることになってるよ!当日よろしくね!(爽やかな絵文字とともに)」。

 

その後のグループチャットでの「今からのキャンセルはキャンセル料かかります!」

 

なにかわからないけど、なにかが「お前、同窓会でとけよ」って言ってるような気がした。

もうでるしかねぇ。

私の最も苦手とする人たちの中に、お金を払って飛び込みに行く。エキサイティングな苦行。妙な高揚感と淀んだ不安。たかだか同窓会が、クソゲーのラスボスのようなしょぼい、しかし圧倒的な存在感を出している。

 

無論ドレスなんてもってるはずがなく、ZARAで1900円まで値下げされた「いやこれはさすがに普段に着れないだろワンピ」を買い、試着。

うん、めちゃくちゃ気合い入れて美術館にきた人みたいになってる。大丈夫だ。みんなきっとよくわからない格好でくるだろうし。

 

20歳。

もう子供には戻れない、なんて、張り切っちゃうくらいは子供で。

大人だと思ってた幻想が、陽炎のようにいつもつかめず、いつだって少し先にいる。

 

私は永遠に大人にはなれないのだろうか。けれど、いつのまにか子供でもなくなっていて。かといって「子供と大人の中間!」なんて10代みたいな甘酸っぱさ漂うことも言ってられず。

 

久々にふざけ倒した文章かいてしまった。

もう明日もはやいし読み直さずに投稿しちゃえ。

 

 

 

2017年。12月、の折り返し地点を過ぎて、良いお年を、なんて挨拶がちらほら耳にする季節になった。

 

どんどん自分がつまらなくなっていってる気がして、そしてそこに対する危機感がどんどん薄れていって、こうやって「大人」という生き物は調合されてるのかなぁなんて子供じみたことを考える深夜1時30分。

明日こそ早くねようと毎日のように思うのにいつも夜更かししてしまう。

夜の9時ごろにこてっと寝ることができて、朝6時ごろに起きる、そんなどこかの誰かの当たり前が眩しく感じる。

 

毎回テーマも決めずだらだらと、同じような内容を微妙に違う言葉でまとめるひとりよがりな遊びにも飽きたとき、私の中のなにかが明確に死ぬのだろうな。

文字を打つという単純作業に支えられている、私の脆いアイディンティティ。

 

世の中っていつもうっすら正しくてうっすら間違ってる。全てが曖昧。って、急にどうした、自分。

 

沢山恋愛したいなぁ、って、これは前も言ったか。

自分の賞味期限が切れる前に色んなことをしないと。有限ありきの無限の可能性。一つの考えにとらわれず、しかし俯瞰しすぎてもつまらない。甘い蜜を求めて、あえて苦味を感じにいく、とかね。

 

やばいな、名前通りはてなブログになってる。

次はなにかしらテーマきめよう。

 

 

どんな精神状態でもやっぱり気づいたら文字を打ってる。言葉が好きなのか、言語化依存症なのか。流れてく感情を書き留める娯楽は飽きることがない。

 

単刀直入にいうと、今、ほんとにたった今、1分前くらいから、なぜか身の回りの人の全員の嫌なところだけが見えて全員が嫌いになっている。

心が不健康なのだろう。嫌い、悲しいという感情はその人の世界が狭い時に起こる現象だと私は頭ではわかってるはずだ。

 

試され、騙され、都合よく扱われ、周りにロクな人がいないように思えてしまう。あの人もあの人もあの人も、気持ち悪い、とわざわざ思ってしまう。心の中に濁った煙が外にでていかずに渦巻いてるようだ。苦しさよりも悲しさに近い、でも悲しいと振り切れるほどこの感情の純度は高くない。

 

こうやってダラダラと書いて気を分配しなきゃ負の感情に流されそうだ。

 

今見えてる人間がちょうど自分のレベルだ。と思うともう人生をやめたくなるな。

 

そういえばツイッターで死にたいという言葉やその他暴言が禁止になった。

言葉を規制して感情も自動的に消えるなら、どんなに楽か。

 

私はいつも今が一番幸せで、いつもうっすら死にたくて、なんだか妙に焦っていて、漠然と退屈で、しっかりと孤独だ。

これがもう2年。 いつまでこの感情と手を繋いでいればいいんだろう。

 

一時的に満たされてもすぐにコップの中の水は蒸発して、満たされたぶんだけコップの中に虚無がひろがっている。

 

だれか、と言いながらもう期待するエネルギーすらも惜しんでる自分がいて。

 

死にたいと強く思えるほどの執着すらなくしてしまったような気がする。

ギラギラと、人生を自分のものにしようとアンテナ張って生きてたころのしんどさも、今の暴力的な無気力感で全てが嫌になるしんどさも、全部なくなればいいのになぁと思う。

 

いつかは、綺麗になって、ちゃんと自立して今の生活なんて忘れてるかなぁ。

ちゃんと生きていけるのかなぁ。

いつかの私は言葉よりも頼るなにかがあるかな。

 

一体なにが幸せで、そしてその幸せの正体がわかったところでどうしたらいいのか、本当にわからない。

 

少し気が紛れた。

誰に読まれるでもないけどさ。いつもメモ帳だけど今日はブログにしてみた。

うん、相変わらずの破茶滅茶な文章。

 

お風呂にでもはいって寝ましょうかね。

 

‪大の苦手だったコーヒーを克服したことをいいことに、やたらコーヒーばかり飲んでいる。

 

生まれて19回目の秋にして、カフェイン中毒ぎみ。

なんというか、口に含んだときにちゃんと苦くて変に安心する。

 

元々コーヒーにお湯をそそいだときのふわりと空気を巻き込むような匂いが好きで、それなのに飲めなかったもどかしさが蓄積してたから、その反動もあって。

でもちょびちょび盗み飲みするように飲んでたら当たり前だけど冷める。冷めたら全然美味しくなくて。

 

だらだらとゴールも決めず文字を打つ。

意味不明で、文章としての美しさは一切無視した滑稽な文章でよければいくらでもかきつづけることができるような気がする。

 

あー部屋が汚い、明日片付けようって思ってから一体何ヶ月経つんだろう、永遠にこない明日はいつくるんだろうとか。

 

なんかかっこいいこといいたいなぁなんて漠然と思ってるかっこ悪さ。

 

なんだか秋の夜は居心地が悪い。

 

10代がもう終わる。

10代が人生の全てじゃないけど。

 

色んなことに期待して、色んなことに絶望して、もう二度と思い出さないような些細なことの連続で。

 

なにに苦しんでるのか途中からわからなくなって。もがいて泳いでるときよりも、安心ってずっと楽だけど、いつのまにか知らないところに自分を運んでる船みたいで。

 

もう全然自分が正しくなくて。

 

 感情を殺すのがうまくなって、心の雨は冷たくなる一方。 


物分かりがいいのは自分のためなんだという物分かりの良さはとうとうなんの武器にもならなかった。

 

沈黙は無音で、静寂は気配。

 

誰にも特別好かれてないなんて今に始まったことじゃない。それなのに、心の薄青い水面をゆらす。

 

今が懐かしい感覚で、私はずっと未来で自分を待ってる。

 

忘却は最大の復讐なら、私は一体なにに復讐して生きてるんだろう。忘れることは許すことっていう人もいるし、もうわからなかった。

 

さみしさで狂うくらいなら切なさで壊れたい。

 

強くならなきゃと言いながら崩れる弱さだ、幸せになろうとしてたのにいつのまにか幸せに見せようと四苦八苦してた

 

怖い、という感情がなにかを失うときの信号なら、私はあまりにも色々なものを持ちすぎてる。

 

そう思ってあけたカバンの中身は空っぽで、一体なにに怯えてたんだろうと悲しくなりたい。

 

やっぱ2時とか3時にかく文章はグダグダだな

 

 

 

 

 

‪9月1日が子供の自殺数が一番増えるそうで。たかだか学校で、なんていう大人は知らないのだろう、狭い水槽だとそれだけ悲しみも大人のそれより随分と深いことを。

 

高校生の頃、ああ、こうやってなにかを我慢して妥協したまま何十年も過ごす人生が私の一番いい人生だとしたら、私の人生ってなんて退屈でかなしいんだろうなぁ、だからといって具体的にどうしたいっていうのもないし、なぁ、ってぼんやり茜色に染まる帰り道のアスファルトをみて考えてた。今ちゃんと嫌な学校に行ってちゃんと勉強しないと、誰からも必要とされず就職できなくて、将来お金が稼げなくて食費や光熱費に困るんだろうなぁ。こんな自分の将来の食費や光熱費に苦しめられるなんて生きてる意味あるのだろうか、生きる価値もない未来の自分を生かすために色々してる今の自分は虚しい存在だ、と本気で思った。

 

それと同時に、自分でもそれらが小さな悩みとハッキリと自覚していて、こんな悩みを誰かにいえば、そんな小さな悩み、大げさだ、生きてればいいことあるよ、まだ若いんだから、と思われるんだろうな、とも思っていた。

 

そして、こんな小さな悩みでこんなに悩んでしまう自分はダメな人間だなぁ、この先もっと大変なことがあるのにこのグラグラの義務感でこの先の人生の苦しい儀式を通過できるわけがない、もういっそ今のうちに死んじゃおうかな、なんて考えてたわけだ。

 

そんな私も制服を脱いで2年がたって、10代も最後になって、物事を楽観的にとらえる技も習得しはじめた。世界は、決して目まぐるしくはないけど緩やかに変わっていくんだなぁと知ったようなことを言いながら、でも、やっぱりうまく息継ぎができないでいた。

 

世の中には、どんな言葉でも救えない絶望が大半だと思う。死ぬ勇気があるなら生きろだとか、死んだら悲しむ人がいるだとか、とにかく逃げればいいんだからとか。そんな、自分をわかってくれない知らない人のつくった無責任な文字の羅列は、かえって孤独な気持ちになった。

 

もう、ほんとにそういう問題じゃなくて、死にたさは漠然としてただ心のドブの中をゆらりゆらりと泳いでるだけで。

その怪物が出ていくまでに引き込まれちゃう人がいれば、運良く逃れられた人がいる。たったそれだけで、そこに対して強いとか、弱いとかはないのに。

 

どんな言葉でも救えない、なんて書きながら、「好きで生まれたわけじゃないんだから好きで死んでもダメだって言葉が好きなんだ」、と綺麗で真っ直ぐな目をした人に言われたのを思いだしていた。5月の夜で、少し肌寒くて、月がやけにぼやけていて、なんだそれ理不尽だなぁって呆れて、そこにゆったり流れる時間が無性に愛しかった。‬

果たしてその言葉に救われたのかはわからないけど、少なくともいつかまたグラついたときの一つの柱になることはたしかだろうな、と思う。

 

またしょーもない文章をダラダラと書いてしまった。しょーもないのだ、ほんとに、全部。しょーもない。