6/16
6/16に祖父が亡くなった。
苦しみながら医療の管に繋がれて心の首を締め続けられたらどうしようという私の心配は不要だった。
最後にお見舞いに行ったとき、数日前の「もう死にたいんだ」と言っていた祖父はおらず、
目に光が戻って、「顔が見れて、元気がでたよ」と柔らかく微笑んだ。
病人に気を使わせてしまう自分の不甲斐なさを感じたが、そうではなく、祖父は何かを感じ取っていたのだろうか。
その日の夜中に眠るように亡くなった。
本当に眠っているようで、肩を叩いたら目を開けて「ああ、きたの」と言いそうな表情だった。しかも、寝顔の種類でいうと昼寝の寝顔だった。晴れた日曜日の昼寝、という言葉がピッタリで、死という言葉が不釣り合いなように思えた。
その後、葬儀で棺桶の中に好きだった本と、好きだったパンを手向けた。現実的には、燃えて灰になるだけだとわかっていたけど、目の前の祖父の身体は、祖父の魂と長く連れ添ってくれた入れ物なら、本もパンも思い出の入れ物なんだと、自分なりに解釈した。
花が沢山届いて、住職が驚くくらいの量の胡蝶蘭や百合も敷き詰めた。
真っ白な花々と、祖父のはいった棺桶はその箱の中の空間だけ切り離された完全な静寂で、時が止まっていた。蓋をとじる瞬間、蓋の影が祖父の顔にかかったとき、なぜか、現実と非現実が交錯したような不思議な感じがした。
今日、明け方に2度寝したら、祖父が亡くなってからはじめて夢にでてきた。
いつも祖父の家で座ってたリクライニングソファに座ってぼーっと外をみていた。
私は、夢の中でこれは夢だとハッキリ認識していて、
それでもまたこうして会えたことが嬉しくて、悲しくて、駆け寄った。
咄嗟に手を包み込んだが、手が温かかったが冷たかったかを覚えていない。自分がなにを祖父に話したのかも覚えていない。慌てふためいて、転んだ子どもみたいに泣く私をみて祖父が笑っていたのだけ覚えていて、なにを言われたのかも覚えていなかった。夢は記憶の網目から砂のようにこぼれ落ちてすぐに忘れてしまう。それが今日はもどかしかった。
そして、その記憶の網目がさらに粗くなる前に、多少ざっくばらんでもいいからこうして乱雑にでも書き留めておこうと思った。
そういえば、祖父が晩年に最後に描いた絵は、紫陽花と私だった。
紫陽花の前で浴衣をきた私の絵を、仲間内の展覧会で飾っているのを見に行ったのが2人での最後の外出だった。
ちょうど、1年前のこの時期だということに
今更気付いた。
また、いい映画みた
ビフォアサンライズという
たまたま同じ列車に乗った男女が、ウィーンで途中下車して、朝までひたすら喋って解散する、という特に大きな事件は何も起きない映画をみた。若者が2人、街を歩きずっと対話している。そんな日常的な一コマをこんなに楽しく、儚く、愛おしくえがく映画、すごい。
会話と、2人の空気感が、観てるこっちの居心地が良くなるほど最高に質が良い。
2人の後ろを流れるウィーンの朝までの景観もうっとりする。
冒険というほどスリルもないけど、
散歩にしては甘すぎる感じの。
こんな時間が人生に流れてほしい。
そう思わせてくれる映画に出会えて嬉しい。
次はパターソン観たいな。
ちなみにこの電話のシーンがわりと好きだった。
生かされる苦しみ
祖父のお見舞いにいった。
つい先週まではギリギリ車椅子に座っていたが
今日はもうベッドに寝たまま。もうご飯もなにも食べれない状態で点滴だけで生き延びている。
好きだった水羊羹も、もっていったが、一口も食べれないと。
頭だけは妙にしっかりしている分、動けなくなった身体と、永遠とも思える時間が祖父を身体的にも精神的にも苦しめていた。
「もう生きていても仕方がない。もうさっさと死にたいんだけど、なかなか死ねないね。」
私の目も見ずに、ぼんやりと目先の空間に視点をおいて何度も同じことを違う言い方でいった。
もうなにも食べれない、動けない、人ともうまく話せない状態のままただ毎日生きて、
回復して、良くなる見込みもなく、到達地点は決まってるのに終わりが見えない日々。
身体という檻に閉じ込められ、現世との交信手段をじわじわと絶たれていくのをただ観察するしかない苦しみは、想像を絶する。
どんな言葉も、言葉としては無力であったが、
これまでの祖父との関係性があるから、
私が祖父に言葉をかける、という事実そのものに意味があるはずだ、と自分に言い聞かせて
祖父の色白になった手を握った。
「……何か欲しいものはある?」
そう聞くと、間髪いれずに、
「この点滴をもうやめてほしい」
と答えた。
祖父は自分の死をどう見つめているんだろう。
1度停止したら再開することのない、本来かけがえのないはずの生命活動が今は忌まわしいのだろう。
孤独感だったり、無力感や恐怖をただひとり、
変わらない病院の天井を見ながら諦めとともに苦痛とともに感じているのだろうか。
年齢も年齢だから、病気と「闘う」わけでもなく、「受容」「共存」しているつもりでも、現実的に辛いことが多すぎる。
元々は絵をかいたり、本を読んだり、散歩したりすることが好きな人だった。
それがある日絵もかけなくなり、そしてまた別の日に食べれなくなり、歩くことができなくなり、
自分らしさ、アイデンティティを日々喪失していく中で、もう今の寝たきりの状態の中にはなにも「祖父らしさ」はない。自分らしさを失ったら、次に失うのは人間らしさだ。
それを痛感しているから、自分が自分として生きる意味を見いだせないのだろう。
自分の人生のはずなのに、人生から疎外され、コントロール権を失い、あとは全てを失っていくのをただ傍観していくことが決定していたら、
はやく死にたいと思うのは当たり前の心の反応で、その痛みは解決することができない。
私ができることは、ただそばにいるだけなのに、
仕事があってそれもままならない。
思えば、祖父には本当に色んなことをしてもらった。
私が本を好きになったのは、祖父の大きい本棚の影響だし、
絵を好きになったのは、一緒に絵の具で絵を描いたことが影響している。
小さい頃からよく近所に散歩にいったし、父親参観的なものも来てくれたし。
祖父の死が、それらの思い出の喪失ではないはずなのに、その時には思い出すとも思わなかった思い出のひとつひとつが今思うと尊い。
なんか、進化したVRみたいなものが、祖父にこれまでの楽しかった思い出を祖父視点で追体験させてくれたらいいのになぁ。
でも、VR外した時の現実との温度差が逆に残酷か。
明日、また会いに行こうと思う。
なにも出来ないけど、答えのない苦しみを解決しようと思うほど傲慢じゃない。
降り続ける雨の中、傘をさしてあげることができなくても、一緒に雨に降られたいと思ってしまう。
そして、もし天国があるなら、今祖父が感じてる苦痛が全てチャラになるくらいめちゃくちゃ素敵な場所であってほしい。
良い映画みた
サブスクリプションサービスで映画をカラカラとスクロールすることも好きだが、それ以上にレンタルビデオ屋にいって映画を物色することも好きだ。
安いビニール傘がひっくり返って、風で飛ばされそうになりながら、今日だけはその選択肢を間違えたのではないか…とうっすら感じたが、結果的に選んだ映画が最高すぎて、過去の自分には安心して風に飛ばされそうになっていてほしい。
「バビロン」を予備知識なく借りて、深夜3時頃から見はじめた。3時間ある映画だと知らなくて、エンドロールが終わったら6時だった。
カーテンの隙間からでも外が明るいことがわかった。
ベランダの窓を少しあけて、歯磨きをした。
出かける予定のない日にのんびり見上げる明け方の雨って、なんていうか他人事に感じる。
薄い灰色と青が混ざったような早朝の空をみながら映画の余韻に浸ってたら、
感想を残したくなって、久々にダラダラ打ち始めた。
閉塞感と解放感のバランスが気持ちよくて、
夢が叶ってハッピーエンド、じゃなく、
夢が完全に叶って輝いてからの転落に焦点があたるところがあって、人を幸せにするはずの成功が人を疲弊させて壊していく様子を美しい悪夢のように描いていて、映画って本当に必要な栄養だなって改めて思えた。
生々しくてグロくて破茶滅茶な、絶対に経験することのないような混沌としたシーンも、
登場人物のふとした言葉だったり映像が、人生にはこういう瞬間がある、こういう感触が確かにあるなって思えるシーンも両方あって、
スクリーンに入り込むような感覚だった。
また映画みたいなぁ。
次は、ビフォアサンセットみたいな〜
好きなシーン↓↓
おやすみなさい。
「花束みたいな恋をした」を観た
花束みたいな恋をしたという映画をみた。
ポスターでは、人気の女優と俳優が、楽しげに笑って肩を寄せあっている。
きっと普段だったら素通りしてしまうようなありふれた恋愛映画のようなポスター。
しかし、脚本が坂元裕二。
ただそれだけの理由で観たら大正解だった。さすが坂元裕二…。
なんだか甘ったるそうなチョコがあるなと思って軽い気持ちで口に入れたらあまりのビターさに一瞬たじろいでしまう。
でも、長年求めていた味で静かに興奮してしまう。そんな映画だった。
この物語は絹と麦という2人の大学生が付き合い、そして別れるまでを描いている。
その細やかな描写が本当に観てるこちら側の心を上手に揺する。
じわじわとすれ違っていく様子がグラデーションのようでいて、だけどハッとするようなコントラストな描写があったり、
「あ、これあの時みたい」の「あの時」が恐らく観てる人のほとんどにあっただろうし、
何より、ふたりの間に流れる空気の手触りが手に取るようにわかるくらいにリアルで、
生々しくて、妙にぞくぞくしてしまう自分がいた。
「今日、終電までに告白したい」
と思いつつなかなか踏み込めない2人の壁を壊し、繋ぎ合わせた象徴のように劇中に出てきたイヤホン。
しかし、関係が進むにつれ、同じ部屋の中で麦だけがイヤホンをした瞬間、
かつて2人を繋ぎ合わせたイヤホンが、2人の間に壁を作る道具に一変した。
そして、何年か後、かつての自分たちのようにイヤホンをシェアする初々しいカップルをみて毒づく。
「あの人たち、音楽好きじゃないね。片耳イヤホンってさ、LとRで聴いてる音が違うから、それはもう別の音楽なんだよね。」
皮肉にも、イヤホンがまた2人を引き合わせてしまうのだった。
劇中で度々同じシーンが2回繰り返され、
それぞれの視点から絶妙にニュアンスの違うナレーションをいれていることでふたりの関係性もまた、LとRのように感じてしまう。
同じ音楽をきいているようで、別々の音楽。
偶然お揃いだった靴はお揃いじゃなくなり、
「映画にいく」ことが
「他にして欲しいことある?映画にいくとか」と麦にとって文化は娯楽ではなく関係を良好にするただの道具に変わり、
絹の無理した「大丈夫」は、2人の関係を補強したものから崩すものに変わってしまう。
行けなかったさわやかの「また今度」の今度は来ないし、
じゃんけんの不条理を訴えた麦はパーで猫を勝ち取ってしまう。
人は変わる。人は、変わるという特性があるからこそ、誰かを好きになることができるのだろう。
じゃあ、永遠に変わらないものなんてないのだろうか。
そもそも、恋愛において変わらないということが本当に最も幸せな形なのだろうか。
「出会いは常に別れを内在し、
恋愛はパーティーのようにいつしか終わる。
だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、
その切なさを楽しむしかないのだ」
(劇中の恋愛生存率より引用)
いつしか終わる恋愛の中の幸せな記憶の中にいる麦と絹は、
この思い出がいつかの自分達を悲しくさせるだなんて微塵も思っていない。
その真っ直ぐさと、儚さと切なさに、ハッピーエンドじゃない恋愛の美しさをみたような気がした。
「クロノスタシスって知ってる?
知らないと君が言う 時計の針がとまってみえる現象のことだよ」
(きのこ帝国のクロノスタシスより)
最後のファミレスで重ね合わせたカップルに麦と絹は、
もう戻ることも、進むことも二度とないであろう時計の針が止まっているのを一瞬みたのではないだろうか。
はじまりは、おわりのはじまり。
時の流れの上に恋愛がある以上、それは必然なのだろう。
はじまりを運んできたものが日常なら、おわりをも運んできてしまう。
だけど、きっと、ラストシーンのストリートビューが切り取ったあの一瞬だけは、
現実や社会から完全に隔絶されたところにある、紛れもない2人だけの花束なのだ。
「なぜ君は総理大臣になれないのか」で号泣した
普段家で1人でいるときには泣くことはあっても公共の場で泣いたことは指で数えるほどしかない。
映画館で泣くことはほとんどないが、この映画はなぜか意味がわからないほど泣けた。
苦しくて、無力で、はがゆいのだ。そして、ある意味でとても悲しくて、眩しい。希望と絶望のアンビバレントな感情に心のコップがいっぱいになって溢れ出すように泣けてしまう。
私は右とか左とかのいわゆる政治思想はない。なにが真実で、なにが間違いで、どういう状況で、というものを全て把握できているわけがないと思っているので、自分はそもそも真っ当な判断ができる立ち位置にいないと思っていて、選挙には行くものの、これまで自分の一票が正しいと確信したことはなかった。
この映画はドキュメンタリーで、タイトルからして総理大臣を目指すのかな?と思っていた(完全に無知の状態で観た)。
しかし彼は最後の最後まで、葛藤し、言葉を選んで、「総理大臣になりたいですか?」の質問を反復し、「わかりやすさ」よりも、誠意への細かいチューニングを優先させていた。政治家としての成功の最大の足枷となっている不器用さを切り捨てられないことはもう才能だと思う。
私は、この映画はもっと、もっと多くの人に見られるべきだと思った。
なぜなら「なぜ君は総理大臣になれないのか」の原因は、「君」(主人公)ではなく、私たち側にあるということを痛感するのだ。
私は街頭演説に立ち止まらない。ちらしももらわない。街中の政治家は、自分の名前だけを連呼する、「そういう景色」だった。
じゃあこれから関心をもとう、と思ったところでやっぱり続かないことは目に見えてる。
なので、少しずつ、少しずつ関心を寄せて行こうと思う。
自分のため、未来のため、とかではなく、ただただ、報われるべき人に報われてほしいから。
ヨルシカの盗作が良いっていうだけです
ようやく訪れてくれた休みの日、寝坊したかったのに暑さで目が覚めて、カーテンの隙間から覗く光が完璧に夏の色をしてることを確認する。
遠くから子供の笑い声がかすかに聞こえて、起き抜けに飲む水が身体中に染み渡っていく感覚に体を委ねる。髪を結んで、シャワーを浴びてぼーっとして、また外を見た。夏の晴れの日は、生きる、という色に世界が染まってるようなエネルギーに溢れた空気で満たされている。
ヨルシカのアルバムを心待ちにしていたわりに忙しさと疲れでなんだかんだ初回限定版も買えてなくて、大人になると余裕のなさにどんどん蝕まれてしまうことを改めて感じた。
イヤホンをつけてApple Musicでダウンロードしたアルバムをかけた。
当初のヨルシカの繊細なイメージとは少し、いやだいぶ離れたような大胆な雰囲気のアルバムジャケット。
特に構えることもなく再生する。一方的に聴くだけの音楽だと思っていたものが身を翻してニヤリと笑って私の手をもって引きずりこむかのような始まり。どこか暗い部屋の中にいるような、その場にいるのに居ないような、後ろからVRゴーグルをかけられたような世界観の移行にたじろいている間にその「なにか」と既に共犯になってしまう。そして二曲目にしてもう音楽の中にいるのだ。
少し投げやりで、危なっかしくて、でも華麗で、魔性のなにかに強烈に惹かれて、私は夜の古い洋館のような部屋から、どこに続くかわからない廊下を色々なカラクリに魅了されながら進んでしまう。
しかし聴き進めていくと、さっきまでの挑発的な危うさのヴェールが徐々に剥がれていき、苦しさや、悲しさ、切なさ、みたいな触れたら壊れそうな感情へ静かにグラデーションになっていくように感じる。美しさをとことん求めるということと孤独になることは少し似ていて、手放したい、と手に入れたい、の間で葛藤する「なにか」は私の視線なんてまるで気にせずそこにいるみたいだった。
この音楽の中にある中毒性のある破壊衝動を、私は遠くから傍観している一方で、自分の中にある破壊衝動も薄々自覚しながら、自分を許したくなってくるのだ。
生きたい、死にたい、どこかにいきたい、どこにもいけない、永遠、一瞬、暗い、眩しい、幸せ、「 」、色んな矛盾や、不完全な空白が共存していることを許したかった。
そうしていつのまにか暗かった場所を通り抜けてさっきまでが嘘みたいに幻想的な世界にいることに気づく。振り向いてもさっきまでの黒く渦巻いているものはもうどこにもない。
透き通った声が、夢から醒める前みたいなふわふわした感情を引き出す。
ヨルシカはいつも私に、人生の正解だとか励ましだとかそんな生産的なものはくれない。
ただ、黙って静かに感情を観察する時間をくれるのだ。そんな時間に妙に浄化させられる。だから明日も絶対頑張ろうとか、そういう風にはならないけれど。
アルバムが終わって、しばらくぼーっとして、私は自分が部屋の中にいることに気付いた。
せわしない日常の中、他人軸で生きている時は感じない気持ち、手のひらで掬い上げられない感情に染まる時間は非日常的で不思議だった。
こんなふうに好き勝手エゴ丸出しでかかれることも気持ち悪いことなのだろう。
深夜だし、まぁいっか…