「花束みたいな恋をした」を観た
花束みたいな恋をしたという映画をみた。
ポスターでは、人気の女優と俳優が、楽しげに笑って肩を寄せあっている。
きっと普段だったら素通りしてしまうようなありふれた恋愛映画のようなポスター。
しかし、脚本が坂元裕二。
ただそれだけの理由で観たら大正解だった。さすが坂元裕二…。
なんだか甘ったるそうなチョコがあるなと思って軽い気持ちで口に入れたらあまりのビターさに一瞬たじろいでしまう。
でも、長年求めていた味で静かに興奮してしまう。そんな映画だった。
この物語は絹と麦という2人の大学生が付き合い、そして別れるまでを描いている。
その細やかな描写が本当に観てるこちら側の心を上手に揺する。
じわじわとすれ違っていく様子がグラデーションのようでいて、だけどハッとするようなコントラストな描写があったり、
「あ、これあの時みたい」の「あの時」が恐らく観てる人のほとんどにあっただろうし、
何より、ふたりの間に流れる空気の手触りが手に取るようにわかるくらいにリアルで、
生々しくて、妙にぞくぞくしてしまう自分がいた。
「今日、終電までに告白したい」
と思いつつなかなか踏み込めない2人の壁を壊し、繋ぎ合わせた象徴のように劇中に出てきたイヤホン。
しかし、関係が進むにつれ、同じ部屋の中で麦だけがイヤホンをした瞬間、
かつて2人を繋ぎ合わせたイヤホンが、2人の間に壁を作る道具に一変した。
そして、何年か後、かつての自分たちのようにイヤホンをシェアする初々しいカップルをみて毒づく。
「あの人たち、音楽好きじゃないね。片耳イヤホンってさ、LとRで聴いてる音が違うから、それはもう別の音楽なんだよね。」
皮肉にも、イヤホンがまた2人を引き合わせてしまうのだった。
劇中で度々同じシーンが2回繰り返され、
それぞれの視点から絶妙にニュアンスの違うナレーションをいれていることでふたりの関係性もまた、LとRのように感じてしまう。
同じ音楽をきいているようで、別々の音楽。
偶然お揃いだった靴はお揃いじゃなくなり、
「映画にいく」ことが
「他にして欲しいことある?映画にいくとか」と麦にとって文化は娯楽ではなく関係を良好にするただの道具に変わり、
絹の無理した「大丈夫」は、2人の関係を補強したものから崩すものに変わってしまう。
行けなかったさわやかの「また今度」の今度は来ないし、
じゃんけんの不条理を訴えた麦はパーで猫を勝ち取ってしまう。
人は変わる。人は、変わるという特性があるからこそ、誰かを好きになることができるのだろう。
じゃあ、永遠に変わらないものなんてないのだろうか。
そもそも、恋愛において変わらないということが本当に最も幸せな形なのだろうか。
「出会いは常に別れを内在し、
恋愛はパーティーのようにいつしか終わる。
だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、
その切なさを楽しむしかないのだ」
(劇中の恋愛生存率より引用)
いつしか終わる恋愛の中の幸せな記憶の中にいる麦と絹は、
この思い出がいつかの自分達を悲しくさせるだなんて微塵も思っていない。
その真っ直ぐさと、儚さと切なさに、ハッピーエンドじゃない恋愛の美しさをみたような気がした。
「クロノスタシスって知ってる?
知らないと君が言う 時計の針がとまってみえる現象のことだよ」
(きのこ帝国のクロノスタシスより)
最後のファミレスで重ね合わせたカップルに麦と絹は、
もう戻ることも、進むことも二度とないであろう時計の針が止まっているのを一瞬みたのではないだろうか。
はじまりは、おわりのはじまり。
時の流れの上に恋愛がある以上、それは必然なのだろう。
はじまりを運んできたものが日常なら、おわりをも運んできてしまう。
だけど、きっと、ラストシーンのストリートビューが切り取ったあの一瞬だけは、
現実や社会から完全に隔絶されたところにある、紛れもない2人だけの花束なのだ。