あの感情について

 

 

自分の心を行き先の失った船みたいに感じる時がある。

 

ふと、猫って死にたいって思うことあるのかなぁ って思って調べてみたら、自殺したことがあるイルカはいたみたいだった。

 

そもそも動物には強い生存本能がある上、死んだこともないのに死にたいって思うのは冷静に考えると不思議以外のなにものでもない。

 

しかし、あの毒々しい孤独、焦燥感と空虚にじりじりと追い詰められる感覚は今思い出しても、死にたい、としか表現できない。

 

明日が約束され、未来が来ることは何にも代えがたい幸福でなければならない、恵まれている、私は学校や家で、幾度となくそう「思いなさい」と言われてる気がした。

 

不幸ではない中で苦痛を感じてしまう自分は弱い人間だという、みじめな気持ちで過ごしていた。

 

自分を責めていると、日々というレールの向こうから未来が運んでくる半永久型の苦しみの姿が見える。抗う気力もない時、自らの手でそのレールを断ち切りたいと願ってしまう。その選択肢が妙に魅力的に見えてくるのだ。

 

人は目で世界を見ているのではなく、心で見ていることが大半だ。

 

死にたいときに見える世界はいつも、苦しみの中で自分に許されない自分が、死よりも明日に怯えていた。

 

 

身体の内側から噴き出すような苦しみを我慢したところで、その我慢した先に一体自分はなにを望んでいるのか、わからなかった。

 

死にたいという気持ちは、脳のバグや病気ではなく、自分の人生に対する心の正常な反応であり、病んでいるのはむしろ社会の方ではないかとすら思ったこともある。

 

もうすでに心は死んでいて、そこに身体が追いつく瞬間を自殺というのならば、私はもう、身体だけの抜け殻だ、と。

 

そんな生活を何年も何年もおくっていた。

 

しかし、一生飼いならすつもりでいた希死念慮はある日野良猫みたいにどこかに行ってしまった。中学校からそばにいたのに、少なくとも大学を卒業してから見かけていない。

 

おそらく、学校という支配された集団生活が肌に合わずアレルギーを起こしていただけだった。そんな単純明快な自分の声にすら耳を傾けられなかった私が、人生の意味なんぞわかるはずがなかった。

 

 

なにが正しい生き方なのかはわからないが、生きる意味が重くのしかかってない生活のあまりの生きやすさが未だに新鮮で、なんだかそれだけで幸せを感じる。

 

 

きっと生きる意味なんてものは無いことを心のどこかでわかりながら、生きる意味を必死に考えている時間が私には必要だったのだろう。

 

前に進めない、けれど後ろにも戻れない、立ち止まる勇気もないときにひたすら足踏みすることで自分に一時的に許されているみたいな、無意味で、今思うと愛おしい時間だった。

 

 

今も生活の中でふと思うときがある。なんで生きるんだろう。なんで、いつか死ぬのに生きるんだろう。

 

答えがあるなら知りたいけど、もしあるとするならば、きっとそれは円周率のようにスーパーコンピューターでも辿り着けない次元まで続く答えなのだろう。

 

 

 ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」より

 

「私たち人間がなすべきことは、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度「人生から問われていること」に全力で答えていくことである」

 

なるほど、わかるようで、わからない。

でも、私は考え込むのをやめる。

 

なぜなら、人生の真理を投げ出すほどに日々を充実させる方がよっぽど人間らしく生きれるような気がしたからだ。

 

明日、アイス食べよーっと。

 

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