まずは、日々の生活。余った力でインターネットをしよう、と普段から心がけている(私は自分が承認されやすいネットにすぐ本腰をいれてしまうので)

 

昨日の成人の日は1日中、「携帯を取り出して文字を打ちたい!」って衝動に駆られながら過ごし、しかしあの重量感のある振袖と同窓会の雰囲気に圧倒され、帰宅してお風呂に入ってすぐ寝てしまった。眠れない日の自分に眠気をわけてあげたいと思った。ていうか、あの後二次会いったり行きずりで体の関係もったりして次の日1限から行った人がいるなら届かない拍手をここでしたい。体力、すごすぎでしょ。絶対シャトルラン100超えてたでしょ。

 

そんなことはどうでもよくて、いやどうでもよさでいったら全てがどうでもいいんだけど、とにかく、成人式。結局成人式の解の公式はわからなかった。2次方程式ならわかるのに。成人式って、要は学生時代の人脈の答え合わせなんだなと当たり前なことに気づく20歳。

事実だけをいえば、人混みの中をただ徘徊しに行った。しかし、物事は起きるだけで良い悪いを決めるのは自分。私は、「人生に二度とない」ことがいつも「楽しさ」に直結するとは限らないという有難い教訓だと解釈した。

 

なんだか、大人って、きっと色んなことを諦めてしまう生き物で、諦めてしまう習性すら諦めてしまうのかななんて思いながら街頭新成人アンケートに協力した。若いって素晴らしいと言われたけれど、若さだけが私の価値なら、一体私ってなんなんだろうと思う。そんなつもりで言ったわけじゃないってわかっているけれど。

 

誰かと話したかったわけではないけど、本当に誰とも話せず、まるで振袖をきた透明人間になったようだった。

 

個性を金で買って今日まで準備してたヤンキーたちが「チョーイケテル俺たち」をふりかざしてた。ヘンテコな髪型。何言ってるかはわからないけどなにかを言ってることはわかる拙い力強さ。若さ特有の痛さが、なぜだか驚くほど眩しかった。バカにしてるわけではなく、すごいな、と思った。

 

同窓会は、非日常的だった。まるで、「同窓会」というVRの中にいるような、全くの他人事にバグで紛れ込んだようなナチュラルな違和感があった。

先生と話して、当時の顔見知り程度だった人たちと話して、盛り上がりもせず、かといって絶対に険悪にはならず、わたしお得意のその場しのぎ連続技が炸裂していた。

 

会が終わると速やかに帰った。私の帰り方は、帰るというよりもはける、に近くて、みんなが写真を撮ってるであろう時間にはもう電車に揺られていた。

 

そういえば同窓会なのに色めきだったことなにもなかったなー、誰ともラインも交換してないし、とはやく帰ったくせに退屈を軽く嘆く私の図々しさに自分で呆れる。

 

成人式も同窓会も、そういう儀式めいたもの全部、なんだかぎこちなくてサイズの合わない服をきているような感覚になった。

 この先の人生も、幸せと感じて当たり前の儀式を、こうやってぬぐいきれない違和感をもちながら過ごすのかなと思うと、チロルチョコサイズの絶望を感じた。

 

成人式は楽しかった。同窓会は「超最高、中学に戻りたくなった」。もう、それでいいじゃないか。健全さが足りないんだよ、私には。記憶の中のインスタグラムには、楽しかったと記しておこう。スタンプで可愛く隠したいびつさは、一生隠れてていいからね。