‪9月1日が子供の自殺数が一番増えるそうで。たかだか学校で、なんていう大人は知らないのだろう、狭い水槽だとそれだけ悲しみも大人のそれより随分と深いことを。

 

高校生の頃、ああ、こうやってなにかを我慢して妥協したまま何十年も過ごす人生が私の一番いい人生だとしたら、私の人生ってなんて退屈でかなしいんだろうなぁ、だからといって具体的にどうしたいっていうのもないし、なぁ、ってぼんやり茜色に染まる帰り道のアスファルトをみて考えてた。今ちゃんと嫌な学校に行ってちゃんと勉強しないと、誰からも必要とされず就職できなくて、将来お金が稼げなくて食費や光熱費に困るんだろうなぁ。こんな自分の将来の食費や光熱費に苦しめられるなんて生きてる意味あるのだろうか、生きる価値もない未来の自分を生かすために色々してる今の自分は虚しい存在だ、と本気で思った。

 

それと同時に、自分でもそれらが小さな悩みとハッキリと自覚していて、こんな悩みを誰かにいえば、そんな小さな悩み、大げさだ、生きてればいいことあるよ、まだ若いんだから、と思われるんだろうな、とも思っていた。

 

そして、こんな小さな悩みでこんなに悩んでしまう自分はダメな人間だなぁ、この先もっと大変なことがあるのにこのグラグラの義務感でこの先の人生の苦しい儀式を通過できるわけがない、もういっそ今のうちに死んじゃおうかな、なんて考えてたわけだ。

 

そんな私も制服を脱いで2年がたって、10代も最後になって、物事を楽観的にとらえる技も習得しはじめた。世界は、決して目まぐるしくはないけど緩やかに変わっていくんだなぁと知ったようなことを言いながら、でも、やっぱりうまく息継ぎができないでいた。

 

世の中には、どんな言葉でも救えない絶望が大半だと思う。死ぬ勇気があるなら生きろだとか、死んだら悲しむ人がいるだとか、とにかく逃げればいいんだからとか。そんな、自分をわかってくれない知らない人のつくった無責任な文字の羅列は、かえって孤独な気持ちになった。

 

もう、ほんとにそういう問題じゃなくて、死にたさは漠然としてただ心のドブの中をゆらりゆらりと泳いでるだけで。

その怪物が出ていくまでに引き込まれちゃう人がいれば、運良く逃れられた人がいる。たったそれだけで、そこに対して強いとか、弱いとかはないのに。

 

どんな言葉でも救えない、なんて書きながら、「好きで生まれたわけじゃないんだから好きで死んでもダメだって言葉が好きなんだ」、と綺麗で真っ直ぐな目をした人に言われたのを思いだしていた。5月の夜で、少し肌寒くて、月がやけにぼやけていて、なんだそれ理不尽だなぁって呆れて、そこにゆったり流れる時間が無性に愛しかった。‬

果たしてその言葉に救われたのかはわからないけど、少なくともいつかまたグラついたときの一つの柱になることはたしかだろうな、と思う。

 

またしょーもない文章をダラダラと書いてしまった。しょーもないのだ、ほんとに、全部。しょーもない。