大事な言葉は喉という門番を通らなければ外にでることができない。

私の場合、門番が用心深くシャイで、かつ臆病者だから、いつも大事なことは文字にしないとうまく伝えられない。

 

あの人にあれを言おう、と心の中で念入りにシミュレーションする会話は99%できないし、伝えたいことはいつも濁ってしまう。

 

小学校と中学校に一度ずつ、それぞれ別の男の子に手紙をかいたことがある。

もう内容なんて忘れてしまって、それがラブレターだったか否かすらもう記憶にない。渡した男の子の名前や顔ですらあやふやで、便箋の柄も、渡した季節も記憶の引き出しから消えてしまった。

唯一覚えてるのが、両方その男の子の友達に見せられてしまい、からかわれたことで、小さい私はひどく傷つき落ち込んだのだった。

 

それから私は大事なことを手紙にかいて渡すのをやめた。だからといって直接もいえないので、ただただ言葉だけが自分の中で永遠に終わらない洗濯機の中で、まるで義務みたいに回り続けた。

それは、からかわれたのが嫌だったとかではなく(もちろん嫌な思い出として残り続けているが)、なんだかその日の帰り道が異様に哀しくて、まるで、お湯を沸騰させようとしばらく火にかけていたやかんの中身がからっぽだった、みたいな虚無感を思い出すのだ、手紙をかこうと思うと。

 

でも私が人からもらって一番嬉しいものは手紙で、とにかくその人の過去だとか未来だとか、名前すらもどうだっていいから自分にあてた手紙の中で踊る文章が読みたい。

人からもらった手紙は捨てられなくて、未だに部屋の「手紙ファイル」の中に、中学校の頃にかしたワークと一緒にかえってきたあまり仲良くなかった女の子からの簡単なメモ帳も眠っている。

 

いつか直接、すらすらと、おもってることをなるべく純化した形でいえるようになるのかな。

でもそしたらきっと手紙もラインもツイッターもこのブログですら色褪せるんだろうなと思う。

 

そう思うと、まだ喉の門番にはシャイで臆病者でいてほしいなと思う。