AKB総選挙という不思議なイベントの季節がやってきた。

 

テレビは見ないので、ツイッターに流れてくる情報を適当に眺めていた。

 

20歳の女の子が、結婚発表をした、という話題でもちきりだった。

真面目に頑張ってきたまゆゆがどう、ファンを裏切ったからどう、さっしーがどう、と全く知らない人たちの、様々な感情を言語化されたものがくるくると入れ替わりたちかわり私の目を飽きさせずに踊り続けてくれる。

その中でひとつ気になったことが、

大島優子が「FUCK」とかかれた帽子に気持ちを代弁させた、というのをみた。

 

私はアイドルのことを全く知らないし軽率に物申せるほど関心もないので、これは誰の肩をもつとかの問題ではなく、

単純に得体のしれない嫌悪感に襲われた。

 

悪意のある、それ。つまり、笑いと最も相性の悪いのが悪意だと思うのだが、大島優子は怒りをぐにゃりと悪意の形にしているように見えた。(大島優子自体は好き。ここでテーマにしたいのは誰かを貶めるときに発動する誰しもの内に眠ってる悪意そのものについて。)

FUCK(こういう言葉自体ほんとに好きじゃないから実は本当に打ちたくない)、という直球な歪み、それを爽快と捉えてる人も勿論いたとは思う。そういう人は爽快に思っていればいいんだと思う。

 

しかし、自分の心のうちに思い当たりがあるからか、誰かを憎んでその発散方法として悪意をこれでもかとこめて笑いながら意図的に傷つける、この醜さに自分で驚いたときの恥ずかしさを思い出して、大げさにいうと苦しくなったのだった。

 

品がなく、醜い。人間としての致命傷であり、と、同時に誰でもなり得る状態なのだ。

 

私は、自分の中に眠っていて、突然発作のように飛び起きる悪意の怪物に怯えている。もしもある日目覚めたら、どうあやせばいいのかわからない。自分の中なのに、コントロールがきかないのだ。

 

許せない。あんなやつ不幸になればいいのに。信じられない。憎くて仕方がない。いっそ消えてほしい。そんな、衝動にも近い、負の感情が、さっき死んだばかりの動物の内臓のように生々しくドロっとして、けれどたしかなリアリティをもって誰しもの中に潜んでいる。

 

私は悪口の一切を言わない人間になりたいし、願わくば悪意なんて誰に対しても抱きたくない。

 

私の嫌いなあの人もそれぞれ事情があるし、きっと私自身もそこまでなにかを恨むということは、その分なにかを大切にしていて悲しみの処理が追いつかなくなったということなのだきっと…と。(無論これはただの持論でしかなく、誰かに押し付けようと思ったりはしないし人からきく悪口は否定も肯定もせずただきく)

 

一向に話がまとまらないが、つまるところ今回なんとなく目にしたアイドルの結婚発表で、私は大島優子の衝動的な悪意を、自分の中にたしかにあるにも関わらず説明のつかない厭な気持ちーーそれは思春期の頃に女なのに、保健体育の授業で生理についてきいてるときのあの疼くような独特な柔らかい拒絶に似てるーーを感じてしまい、それを自分で納得いくまで文章にしようと思った次第なのだが、結局もやもやして終わってしまった。

 

そういえば金曜ロードショーでやっていた「インサイドヘッド」、本当に傑作だった。

 

もしも、悪意がキャラクターなら、一体どんな寂しいキャラクターなのだろうか。

そしてそいつは、必要なのだろうか…